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『イタリア的カテゴリー』 ジョルジョ・アガンペン著 みすず書房 - 2012.07.11 Wed

ジョルジョ・アガンペンにより書かれた8本の論文が集められています。

第十二章に「詩の結句」の定義に関する論文がありました。
詩は、音と意味、記号論的連なりと意味論的連なりとのあいだの
緊張と乖離のなかにこそ存在するという
テーゼから出発しなければならないとあります。

ヴァレーリの定義
「詩は、音と意味のあいだの、引き伸ばされたためらいである」
ためらいとはいったいなんであろうか。

プルーストは『悪の華』のある詩の最終行について、
詩が突然崩壊し、息を切らせていると述べた。

詩は、形式的構造の点で、終わることができない、
終わるはずがないというかのようであり、
終わりの可能性が根本から排除されてでもいるかのようなのである。
というのも、その終わりが、音と意味の正確な一致という、
詩にとっては不可能なことを意味するだろうからである。

ダンテの『俗語持論』の一節。
「脚韻とともに沈黙に落ちるような、最後の詩行はとても美しい」
詩が沈黙に落ちるとはどういうことなのであろうか。
落ちる美しさとはなんであろうか。

詩の全体が、最後で、意味のなかに完全に
崩壊しかけているその詩行の脚韻音に強く結びつき、
そこに縛られたまま沈み込むことを選んだかのようになっているのである。
これが意味するのは、詩が記号性と意味性の対立を示して落ちていくということである。
こうして、音は永遠に音に託され、
意味は意味にふたたび戻されるように思われる。
言語を活気づけている二重の強度は、最後の理解で鎮まるのではなく
いわば、終わりのない落下の沈黙へとはまり込んでいくのである。

つまり最後に言語は、言われたことのなかに言われないままに残ることなく、
みずからを伝達することに成功する、ということである。

ウィトゲンシュタインは、
「哲学は本来なら詩作のようにしか書かれることはできないであろう」
と書いている。
哲学の散文は音と意味がその言説において一致するようにするという点で、
凡庸さに陥る危険がある。つまり、思考を欠く危険がある。
ウィトゲンシュタインの言葉をもじって言えば、
詩は、本来哲学することによってのみ、なされるべきなのである。

とても興味を魅かれる内容でした。


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