2017-08

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『イメージの前で』 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン著 法政大学出版局 - 2012.08.15 Wed



表紙の絵は、フェルメール『レースを編む女』の一部分である。

「細部という問題、面という問題」というタイトルの章がある。
1985年7月にウルビーノの記号論言語学国際センターで
ルイ・マランが主催したシンポジウム「断片/断片的」の
枠内で行った発表を活字化したものとある。
「描写しない芸術、フェルメールにおける細部というアポリア」という題で
雑誌『眼の部分』に掲載されているとのこと。

絵画というものには舞台裏がなく、
それは同じ表面上で、
すべてをまさに同時に示している。
しかしその絵画には、
奇妙で途方もない隠蔽の力が備わっている。
その原因はどこにあるのか。
おそらくその物質的なあり方―絵画物質という―と同じく、
時間的な、
存在論的な
状態が原因なのだ。

そして、われわれの眼差しにおける
つねに欠如をはらんだ様態も、
不可分な原因となっている。
絵画においてわれわれが識別していないものは、
驚くほどの数にのぼるのだ。

哲学的な常識において、
細部というものは、
多かれ少なかれ明白な三つの操作に及んでいるようである。
まず、近づくという操作。
わたしたちは「細部に立ち入る」。
細部に立ち入るとは、
切り取り、
分割し、
断片化するために
近づくのだ。

何も語らない絵画として、
17世紀オランダ絵画がある。
たとえばフェルメールの
『デルフトの眺望』
それはいかなるものの
図解でも
表徴でも
なく、いかなる
先在的なテクスト
―イメージは、その歴史的、逸話的、神話学的、隠喩的……価値
と想定されるものを視覚的に構成することを務めとするだろう―
も指示しない。
そのようなものはすべてまったく無関係である。
『デルフトの眺望』は眺望であり、ただ単にそうである。

絵画―オランダの―は、
「世界は、その色彩と光とともに自ずと表面へ沈殿し、自ずとそこへ刻まれた」
という明証性を伝えるために作られているのだ。
知覚された世界は、そのまま―知覚されたままの姿で―
顔料となって絵の上に沈殿するのである。

オランダ絵画における周知の「技術的巧みさ」、
彼らの「誠実な手と忠実な目」。
手そのもが「忠実な目」に、
すなわち主体なき器官に変わりうるという理想である。

可視性のための二つの道具が前面に出されている。
一方は暗箱(カメラ・オブスキュラ)であり、
もう一方は地図である。

フェルメールの
『デルフトの眺望』は
「地図のようなもの」であると言い
絵は、非絵画的ジャンルに基づいて
範列化されると言う。
十七世紀において地図は彩色されていた。
十七世紀における地図に対する
明白に絵画的な発想は絵画に対する
「地理的(ジェオグラフィック)」な概念
とは正反対のものを考えさせるだろう。
『デルフトの眺望』においては、
「地図製作法そのもが称賛の方法となっている」
ほどである。



ルーブルにある『レースを編む女』のことについても述べられている。

作品の大きさ(21×24センチ)が
その近接認識を可能にするばかりでなく
要請するからにすぎないとしても。
ここには絵の「明白さ」がある。
まさに目が視界を走り回る必要がなく、
それほど絵の範囲が狭いことからいっても、
この絵は「明白」である。
ここには女性がいて、
糸、
織物、
レース
がある、
したがってこの女性はレースを編む女である。
この絵は明瞭判明な細部しか与えることがないのだと
われわれは予想する。
しかし、そんなことはまったくない。

「レース枠に集注したこのレースを編む女(ルーブルにある)
をご覧なさい。
ここでは両肩、
頭、
指という二つの作業班を持つ両手
すべてがこの針の先端を目指して向かっていく。
あるいは、青い瞳の中心にある
この瞳孔をご覧なさい。
それは顏の全体を、
存在全体を集約するものである。」(ポール・クローデル『眼は聴く』)

絵という積みわらのなかに「針を探す」にせよ、
形態による迷宮のなかに「糸を見出す」にせよ、
どちらにせよ、
われわれが探し求めて見つけるのはまさに細部である。
あらゆる細部は、多かれ少なかれ
描線という行為と関係している。
それは安定した差異を構成する行為であり、
図字的な決定という、
区別という、
つまりは模倣的な認識という
つまりは意味作用という行為である。

一般的に言って、
イメージが記号となり
記号が類似的となるのは
描線の操作、糸、針、によってなのだ。
フェルメールの小さな絵には、
レースを編む女の指の間に見出される、
あるいは見出されるべきこれらのあらゆる
細部よりもより近くにあり、
より出現状態にある領域が存在する(この本の表紙の部分)
この領域をクローデルは見つめないし、指摘しない。
しかしこの領域は、
作品の前景で色彩の輝きを放ち、
かくも目覚ましく、
かくも広がりのある区域を占めているため、
われわれはそこに何か奇妙な眩暈の力があると
想定しはじめる。
細部がその繊細さにおいて、
その輪郭において把握されるのに対して、
このような領域は逆にとつぜん拡散する。

それは何でできているのか。
それは赤い絵具の流出である。
それは、それほど渦を巻いてはいないものの、
同様に驚きをもたらす白いもう一つの流出とここで
組み合わさっている。
それはレース枠用のクッションから現れている。
それはわれわれの前で、
絵という垂直的で正面的な存在のあらかじめ
計算できない唐突な顕著のように、
常軌を逸するまでに解れていく。
輪郭はそこで彷徨っているようにみえる。

巧みであるとはいえ厚い絵具の塗り、
色価の転調といったすべてが、
偶然の結果として与えられたかのようだ。
それは、ときおり表面を離れる絵筆の漂うような戯れであり
絵筆はその正確さの、
形態統御の能力を失ったかのようである。
ほとんど投げつけられたように置かれた
朱色の輝きであり、絵においてわれわれと向き合い、
そのまま対峙しつづける。
つまりそれは絵具のである。

フェルメールは『レースを編む女』というほんの
ちいさな同じ絵において、
対照的な二つの糸をまさに示している。
まず、模倣的に「正当化された糸」がある。
細く―0.5ミリメートルに満たない―描かれている。
細部の描写力と呼ばれる
画家の能力を見せてくれる糸である。

そして次に、それの正面には別の糸がある。
何も模倣していない。
まるでフェルメールが、様相にではなく、
ただ過程―ほつれ、流出―にだけ興味を抱いたかのようだ。
不正確な糸であり、絵画に朱色の面を出現させる機会を与える。

この面には、奇妙な拡散力、伝播力が備わっている。
つまりそれは絵全体を触発するのである。
幻覚的な効果によって。
そして模倣的明白さは、
こうしてひとつひとつよろめき始める。
滴をちりばめた緑色のテーブルクロスが液状化する。
左側の飾り房は透き通りはじめる。
明るい色の小さな箱に載った灰色の「ブーケ」が
その不確かさでわれわれをおどかす。
彼は、謎めいた大きな暗灰色の領域によって、
あえて自分の「主題」を呑み込ませようとしている……。
フェルメールの作品における赤い色彩の範列を
取り上げるだけでも、
一挙に多くの例を見つけることができる。

イメージがもっとも真正な形で徴候的となるのは
おそらくそれが強烈に矛盾するときである。
たとえば、フェルメールにおける赤い流れや帽子である。
なぜなら、すでにそれらにおいて、
模倣的なものと非模倣的なものの作用が
逆説的に―しかし緊密に―結びあわされているからだ。
絵画の面は、絵の表象体系における連続性を
ところどころで危機や徴候のように
はっきりと断ち切る、
絵画のこのような部分として定義されねばならないだろう。
それは色彩の鉱脈の、鉱層の、至高な露出である。

プルーストは、ヴァントゥイユの音楽について語りながら
「目立たなかった楽節」が突如として「まばゆい建築物」に
生成する出来事に言及するとき、
「不安定な至高性」を表明していた。
それは円柱を数えられるような建築物ではなく、
彼が言うには「光の感覚、澄み渡り」変貌する「ざわめき」である。
「私の想像力の前で執拗に、
しかし想像力がそれを理解するよりも
あまりにも素速く絹織物のようなゼラニウムの
かぐわしい花びらに喩えられるものをちらつかせていた」

プルーストは言う、フェルメールのすべての絵は
「同じひとつの世界の破片」であるが、
しかしそれは典拠としての世界、現実としての世界ではない。
逆にそれは、
「同じ新しい唯一の美であり、その美は謎であり、
人々がそれを主題によって何かと関係させずに色彩が生む個別的な印象を
引き出そうとするなら、何もそれに似ず、説明することもない」。
この世界、それは厳密には、プルーストが書いているように
「織物や場所におけるある種の色彩」であり、
すなわちある意味では絵具そのもの、
つまりカンヴァスにそれ固有の場を、
その色彩と意味の鉱脈を生み出すためにそこに沈殿する、
絵具そのものなのである。


フェルメールの絵を見ているとき、
細部よりも色彩に
気がつかないうちに
わたしの気持ちをつかまれていたのかも
しれないです。







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