2017-03

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『暮らしの哲学』  ロジェ=ポル・ドロワ著  鈴木 邑=編 - 2013.08.28 Wed

暮らしの哲学の目的は
「ちょっとしたきっかけをつくる」こと
とある。

何かをすること、
何かを言うこと、
何かを夢見ること、
驚きを与えてくれることや問題の核心に
気づかせてくれる何かに出会うこと、らしい。

そこから哲学的な発見が生まれることは
たくさんあるとのこと。

101の例が説明されている。
実際にやってみるようにできている。

例えば
№39「書店をぶらつく」
効果 誘惑されそうになる
所要時間 2、3時間
用意するもの 数軒の書店

大事なことは、身体ごと書店に入り
まわりを背表紙に囲まれること。
本の表題が、著者が、登場人物が
訴えかけてくるような気がするとのこと。
あなたの気を惹こうと、声をかけてくる。
身を投げ出す書物が熱い吐息を放つ。

印刷されたひとつひとつの物語は娼婦。
客の気を惹き、
通りがかった魂を捕まえ
しばらく一緒に過ごそうとする。
もっとも、芸術とは全般的にそういうもの
とのこと。

以前に読んだ本で
芸術家たちは隠したくても隠しきれない
淫靡で官能的な感情を実は隠すのではなく、
表現したくてたまらなく
そのエロスをどのようにカッコ良く表現できるか
孤軍奮闘していたのだと感じたことがあった。


惑わされる感覚は
非日常であり
日常と思っていた書店への寄り道は
非日常への入り口であったのである。
と気づく私。




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『くじけそうな時の臨床哲学クリニック』 鷲田清一 著 ちくま学芸文庫 - 2012.12.22 Sat

小さな街の路地裏に
灯りが夜になると
円い月のように入口を教えてくれる
そんな場所に佇む哲学クリニック。

扉を開けて
中に入るとほっとするような
温かい時間が流れている。
受付には

「それはこういう問題じゃないの?
じゃあこんなふうに考えることもできるんじゃない?
というふうに、いくつかの処方箋を出せたらと思っています。
もっとも薬を出す側が、クライアント以上に深く病に
かかっている可能性もありますので、服用するばあいに
いつもちょっと懐疑的であってください。
ついでに治るということじたいにも懐疑的であってくだされば
効能はすこし増すかもしれません。
臨床哲学クリニックは治療することも
疑ってかかるヘンな病院です。
ただ、
ずっと、
あなたの問題もわたしの問題として、
あなたといっしょに考えつづけることは
約束します。」と書かれている。

約束します、
その言葉に安心する。

鷲田氏がいっしょに考えてくれる。

幸福を実感できる瞬間ってありますか?
と聞いてみる。
「幸福はいろんなところで感じられるけど
それがいちばんストレートに感覚として
感じられるのは、口なんです。

口にはいろんな喜びが全部ある。
身体の各部、たとえば胃は
たいてい一つか二つの機能しかもっていないけれど、
口だけは
食べる、
飲む、
話す、
笑う、
歌う、
キスする......、
といっぱい機能を持っている。

おいしい物を食べる喜び、
おいしい物を飲む喜び、
人とおしゃべりする喜び、
それから泣いたりわめいたりする感情表現も。
キスしたりする愛情表現も。」

なるほど。

帰路につく。
四つ折りにした少し厚みのある
封筒に入った手紙のような処方箋。

自分というもの
自分というもののかけがえのなさは、
自分のなかをのぞき込んでも
なかなか見えてこない。
それよりもむしろ、
自分がいまここにいるということが、
だれにとって、
どういう点で意味のあることなのかを
考えることのほうがたいせつだ。

希望の修正
希望のない人生というのはありえない。
そして希望には、
遂げるか、
潰れるかの
二者択一しかないのではない。
希望には編みなおすという途もある。
というか、たえず自分の希望を編みなおし、
気を取りなおして、
別の途をさぐってゆくのが人生というものなのだろう。
人生とはそういうふうにストーリーをたえず
語りなおしてゆくプロセスなのかもしれない。







鉄色の紙と銀色のインクの文字 - 2012.09.18 Tue



『書物の不在』モーリス・ブランショ 著 中山元 訳
を読む。
ページを開く。
ブランショの銀色がかったポートレート。
何歳の時の写真であろうか。

「みずからに問いかけてみよう。問いという形にまでいたらない
ものを疑問点として掲げてみよう。」
と本文の1ページ目の2行に言葉がある。

ブランショが自分に問いかけている言葉を
わたし自身にも問いかけるように読む。
疑問は答えを待たずに
鉄色の紙に吸い込まれ
銀色のインクの文字の痕跡を残す。
痕跡を眺める時間の楽しみを知り
最後のページを終えた。




『西洋哲学史3』 ポスト・モダンのまえに 講談社選書メチエ - 2012.08.30 Thu

残暑が続く毎日ですが
いかがお過ごしですか。
読書の秋にふさわしい涼やかさに
早くなりますように。


『西洋哲学史3』を読みました。
熊野純彦氏の序論にはじまり、
5人の執筆者の方々がそれぞれに
論考したものが収載されています。

「ホッブズとスピノザ」われわれは自分の外にいる 上野修氏

二人が重なるテーマは国家論であるということから
二人の哲学の共通する特徴をあらわし、
しかも両者の国家論の違いがはっきりするような
キーワードが必要となるということで
「われわれは自分の外にいる」を選んだとある。

われわれは自分が思っているところにでなく自分の外にいる。
十七世紀を考えるとき、
デカルトに続く彼らの哲学的寄与はこの啓示に
存するとさえ私は見ていると上野氏は述べている。

トマス・ホップズ(1588-1679)はイングランドの哲学者。
『リヴァイアサン』の著者である。
清教徒革命から王政復古にかけての内乱期を生きた。

バルーフ・デ・スピノザ(1633-1677)。
オランダ共和国アムステルダムに生まれた
ポルトガル系ユダヤ人。
長じてユダヤ教団から破門されている。
『エチカ』の著者。
親子ほど歳が離れているが、
活動時期からみるとほぼ同時代とのこと。

十七世紀は「理性の世紀」と称されるが、
この「理性」という言葉は数学に親和的である。
ホッブズもスピノザも哲学するのは理性である。
自らの教養よりあえて科学や幾何学のほうを好む。

ホッブズ―われわれはしるしを読まれる物体である
ホッブズは自分の哲学の対象を「物体」と呼んでいた。
人間も、そして国家も物体なのである。
ホッブズは推論を「計算」と考えていた。
三段論法も仮言三段論法で考える。
「もし何かが人間ならそれはまた生き物でもある」。
しかるに
「もし何かが生き物ならそれはまた物体でもある」。
ゆえに
「もし何かが人間ならそれはまた物体でもある」。
事実の観察からでなく人間、生き物、物体という名前の
外延計算から必然的にそうなる。

思考そのものの外在性。
言葉は書かれたり話されたりする共用の物質的な記号なので
人間の思考は他人に
伝達されて理解され、
記録され、
保管され、
時空を隔てて当人から独立に再現することにすらできる。
この意味で人間の場合、
思考の存在は外在的である。


スピノザの哲学についても述べられ
その後、二人の哲学者の
国家論の違いへと
上野氏の論考は続いています。
執筆者の方々の論考を通じて
哲学を学ぶ。
執筆者の方々のその哲学者に対する着目する部分を通して
哲学を学べるので、
個性的な内容で面白く読むことができます。
他の巻数のものも読みたくなります。






『西田幾太郎』 シリーズ哲学のエッセンス 永井均 著 NHK出版 - 2012.08.16 Thu

新宿の紀伊国屋書店にて
「ほんのまくら」というコーナーを
特設しているようです。
本の出だしの文章=「まくら」にこだわり、特集しているとのこと。
自分の「まくら」に対する感覚で本を選ぶのって楽しいかもしれない
ということではじめたそうです。
本の書き出しの文章が書いてある
オリジナルのカバーをかけてタイトルは見えないようにしてあるとのこと。
本の出だしの文章との出会いだけで本を選んでみる楽しさを味わえるようです♪

川端康成の『雪国』のはじまりの文

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

サイデンステッカーによる英訳では、この箇所は

The train came out of the long tunnel into the snow country.

と訳されている。
これをそのまま訳せば
「列車は長いトンネルを抜けて雪国に入った」
となる。
英訳では主語が明示されている。
一方
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
という文には主語がない。
いったい何が、あるいは誰が、長いトンネルを抜けたのか、
肝心のそのことが描かれていない。
だから、この文章はそのまま英訳に訳すことはできないようだ。

しかし、ふだん日本語を使っているわたしたちは
川端康成のこの文を難なく理解するだろう。

でも、いったい何が、あるいは誰が、抜けるのか
列車?
たしかに事実はそうだが、
そう表現してしまったのでは、
この文が言わんとしているポイントは失われてしまう。

主人公の島村?
しかし、これもまた事実を正しく表現してはいるが、
川端康成の原文の言いたいこととは違っている。

主人公自身が自分を指す言葉「私」
「私が国境の長いトンネルを抜けると.....」は
「島村が国境の長いトンネルを抜けると.....」と
実質的に違いはない。
前者は、たまたま島村自身の口から発せられたために
変形した後者にすぎないからだ。

もし強いて「私」という語を使うなら、
国境の長いトンネルを抜けると雪国であったという、
そのことそれ自体が「私」なのである。
だから、その経験をする主体は存在しない。
西田幾太郎の用語を使うなら、
これは主体と客体が分かれる以前の
「純粋経験」の描写である。

もし雷鳴が聞こえたら、
日本語ではふつう「雷鳴が聞こえる」と言って、
「私は雷鳴を聞く」などとは言わない。
西田幾太郎の考え方では、
あえて「私」ということを言うなら、
そのときそのように聞こえている雷鳴、
そのように見えている稲妻が、
そのまま、
私なのである。

自分に雷の音が聞こえたとき
「私は雷鳴を聞く」と言ったり、
列車から海が見えたときに
「私は海を見る」と言ったりすれば、
わざわざ他者を排除して、
自分(だけ?)がそういう知覚を持っているように聞こえる。

西田哲学においては、
したがって西田哲学的に解釈された
日本語においては、
知覚する主体もまた、
究極的には存在しない。
雷鳴が聞こえているということ、
海が見えているということが、
存在するだけである。

あえて「私」と言うなら、
私が雷鳴を聞き
私が海を見るのではなく、
雷鳴が聞こえ、
海を見えていること自体が、
すなわち私なのである。


はじまりの文は素敵なものが
多いですよね。
「ほんのまくら」
とっても気になるので
期間中に出掛けてみようと思います。




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