2012-07

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ユニオンフラッグ - 2012.07.29 Sun

オリンピックの開催期間に読んでみたい
または
ユニオンフラッグが表紙を飾る
気になる雑誌を調べてみました。


『洗練と野蛮が同居するイギリス車』という巻頭特集。
一見折目正しいイギリス紳士の体内にはノルマン征服武人の野性的な血が
濃く脈うっているということが、イギリス車にもあるということでしょうか。


『ビートルズが聴こえてくる。』


ユニオンフラッグのクッションが可愛いです。


乗馬の競技が放送されるのが楽しみです。
男性の服装の歴史と乗馬について書かれた記述を以前、読んだことがあります。
乗馬好きのイギリス人にとって、
18世紀風上衣のゆったり広がった裾は不便であった。
そのため彼らは前垂れの部分を切り去って、
よりスポーティな型をつくり出した。
三角帽も乗馬にとって便利とは言えなかった。広いつばが風をとらえ
山の浅さは落馬のさいに保安帽としての役目を果たさなかった。
そこで帽子のふちのサイズをほとんど見えなくなるまで縮小し
代わりに山の高さを持ち上げた。




イングリッシュローズも表紙に。MOOKとして出版されています。




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『メルロ=ポンティ・コレクション』 メルロ=ポンティ著 ちくま学芸文庫 - 2012.07.28 Sat

モーリス・メルロ=ポンティは1908年生まれ。
フランスの哲学者。
人間の行動、身体、歴史、芸術
などについて深い洞察を示したとのこと。

「表現としての身体と言葉」(『知覚の現象学』から)
と目次の第一章にある。

すべての言語は、自らを告げ知らせるのであり、
聞く者の心のうちにその意味を持ち込む。
音楽や絵画でも、最初は理解されなくても、
それが本当になにかを語っているならば、
その周囲に自然に理解者を作り出すものである。

散文や詩の場合には、言葉の力はそれほど
明確ではない。
わたしたちは語の共通の意味を知っているのであり、
すべてのテクストを理解するために必要なものを
すでに所有しているという幻想をもっているから。

実のところ、
文学作品の意味は、
語の共通の意味によって作られるというよりも、
語の意味を作り替えるのに貢献しているのである。
聞く者においても読む者においても、
また語る者においても書く者においても、
主知主義者には想像もできないような
言葉の中の思考というものが存在するのである。

語り手は、話す前に考えるのではないし、
話す間に考えるのでもない。
語り手の言葉が思考そのものなのである。
同じように聞き手は記号によって、
なにかを考えるのではない。
語り手の「思考」は、
語り手が話す間は空虚である。
わたしたちの前でテクストが朗読される場合、
うまく表現されていれば、
テクストそのものの外部で思考が形成されることはない。
語がわたしたちのすみずみを占め、
わたしたちの期待にぴったりと重なり、
語りの必然性を感じる。

わたしたちはそれを予見することはできず、
語りに魅了されているだけである。
語りやテクストの終わりは、この魅惑の終わりである。

語りやテクストについての思考が生まれるのは、
それからであり、
それまでは語りは即興的なものとして展開され、
テクストは思考の働きなしに理解されていた。
意味はあらゆる場所にあったが、
どこにも「意味」として指定されていなかった。

ここにいないピエールを思い描くとき、
わたしはピエール自身とは別個に存在する
「想像的なピエール」について考えているという意識はもたない。
わたしがピエールを想像するということは、
「ピエールの振る舞い」をわたしの中で作動させて、
ピエールの疑似現前を作り出すことである。

成功した表現の営みとは、
読者と作家に一つの備忘録を
与えるようなものではない。
意味作用がテクストの核心において
一つの物のように存在することになり、
語の有機的な作用のうちでこれが生命をもつ。
これは読者と作家のうちで、
新しい感覚器官となり、
わたしたちの経験の新しい領域と次元を拓いてみせる。

表現のもつこの力は、
芸術において、
たとえば音楽においてよく知られている。
ソナタの音楽的な意味は、
これを担う音と切り離すことができない。
演奏が終わった後では、
わたしたちは音楽を知的に分析しながら、
音楽を聴いた瞬間に遡ることしかできない。
演奏の間は、音はソナタの単なる「記号」ではない。
ソナタは音を通じてそこにあるのであり、
音のうちに舞い降りる。

しぐさや言葉は身体とは別の能力を形成するとか、
あらわにすると言うだけで満足してしまう。
見逃されていたのは、
こうした能力を表現するために、
身体は最終的にはそれが意味する思考や志向
そのものになる必要があるということだった。
身体が示すのは、
身体そのものであり、
語るのも身体そのものである。

バルザックは『あら皮』で、
「降ったばかりの雪のようなテーブルクロスの上に、
左右の釣り合いのとれた食器がそびえ、
その上をブロンド色の小さなパンが飾る」
と表現していた。
セザンヌは
「青年時代を通じて、私はこれを、
すなわち降ったばかりの雪のようなテーブルクロスを
描きたいと思っていた」
と語っている。
「しかし今では、左右の釣り合いのとれた食器が
そびえているところや、
ブロンド色の小さなパンしか
描こうとしてはならないことがわかっている。
もしも『飾る』を描いたら、私の絵は一巻の終わりだ。
ほんとうに食器やパンの色調を自然のままに描きだし、
左右のバランスをとれば、
『飾る』も雪もすべてのふるえも、
みんなそこに現れるだろう」。

存在するという語には二つの意味があり、
そしてこの二つの意味しかない。
物として存在するのか、
意識として実存するのか
のいずれかである。


美術館に行き、絵画を観る。
コンサートホールで音楽を聴く。
読書している時。
わたし自身が
感じ取っている事を
メルロ=ポンティに教えてもらえた。
そう思えたのでした。






『ロベール・ドアノ―』  - 2012.07.26 Thu



書店の芸術書の棚の前を見ていたら
見覚えのある写真集が目にはいった。
ロベール・ドアノ―の写真展を見に出掛けた時に
販売されていた写真集であった。
なんだか懐かしい場所にふと訪れたように感じて
家でもっとゆっくりこの気分を
味わいたいと思い買ってきた。

代表作185点の写真の掲載されたページの
最後の方に
「写真についての覚書」というタイトルの付けられた
『Zoom』1976年1月号掲載のインタビューを元に構成された
文章が載っている。その中で述べられていた。

世間は、しばしば私とその写真を過去の時代に閉じ込めようとしたがる。
それが人々の要求でもあるのだが、私自身は縛られることが嫌いだ。

私には自由が必要なのだ。
この自由は居心地の悪さと引き換えに得られるものだが、
それを支えていかなければならない。

私が面白いと思う写真、自分で上手くいったと思う写真は、
結論を出さず、
物語を最後まで語らず、
見る人々が好きなように物語を続けてもらえるように
開かれた写真だ。

自分が暮らしている場所にある美しさ、
あまりにも日常の中に埋没し見逃されているものを
見たいと思っている。

本の帯には
イメージの釣り人、ロベール・ドアノ―

わたしがロベール・ドアノ―の写真を
見ていたい理由がわかったような気がした。







「悲しみよこんにちは」  フランソワーズ・サガン著 朝吹登水子訳 - 2012.07.25 Wed

夏になると思いだす本がある。
この本を読んだ時期は夏ではなかったような気がする。
本の主人公セシルは17歳の少女。
この本の舞台となっているのは夏の南仏の海岸。

主人公セシルの夏の出来事を
ぼんやりと
頭に思い浮かべる。

「私は海の底に水色とバラ色の美しい貝のような石を見つけた。
私はそれを採るためにもぐった。
私は昼食まで、優しいすりへらされた石を手の中ににぎっていた。
私はそれが幸福のマスコットで、夏じゅうこれを離さないでいようと思った。
私がどうしてこの石を失くさなかったかわからない。
なぜなら、私は何でもみんな失くしてしまうから.......。
今日、この石は桃色に、暖かく私の手の中にあって、私を泣きたくさせる。」


新潮文庫から朝吹登美子さんが訳されている本と
河野万里子さんが訳されて新訳コレクションとして
出版されている本があります。二冊とも読みました。



「アイルランド短篇選」 橋本槇矩編訳 岩波文庫 - 2012.07.24 Tue



アイルランドの短篇小説が発展した理由には
アイルランドの歴史が大きく影響しているとのこと。

1801年    イギリスによるアイルランドの合併
1823年    ダニエル・オコンネルのカトリック解放運動
1845-1894年  大飢饉
1867年    フィニアン団の蜂起
1879年    土地闘争
1916年    イースター蜂起
1922年    アイルランド自由国成立
1949年    アイルランド共和国成立

『表象のアイルランド』(1995)で批評家のテリー・イーグルトンは
「イギリスにくらべ、アイルランドでリアリズム長篇小説の
旺盛な盛り上がりが見られなかったことについては、
もう少し特殊ないくつかの理由があった。
リアリズム長篇小説は、まずなによりも定着と安定性の形式であって、
個々の生を統合された全体に向けて集積するものである。
そして、アイルランドにおける社会的諸条件は、
そのような楽天的な和解に向かうようなものでなかった」(鈴木聡訳、紀伊国屋書店、1997年)
と書いているとのこと。

長篇小説に必要な「統合された全体」という視点ないし支点が
熟成しなかったアイルランドでは、
そのかわりに「個々の生」を物語る短篇小説が発展した。

アイルランドの作家ショーン・オフェイロンは
なぜアイルランドでは長篇小説ではなく、
短篇小説が好まれるかについて意見を述べている。
「アイルランドは小説家に幅広い視野を与えてくれない。
なぜならアイルランド社会はあまりにも堅苦しく、
因襲的で、自己満足であるからだ。
登場人物が社会的規範に反抗する機会もほとんどない。
すべてを自己満足的に解決しているので、
アイルランド人は、天国以外にめざすところがない。
厳格なイデオロギーを受け入れているすべての民族とおなじように、
アイルランド人は彼ら自身の完璧な因襲によって息の根をとめられている。
他の国の小説が信仰を失った、さ迷える人の不安によって頓挫しているとすれば、
アイルランドの小説は、
魂が救われた人々によって頓挫しているのである。」(「イェイツ後のアイルランド」より)

この「アイルランド短篇選」には15篇が収録されている。
この中のジェイムズ・ジョイス著「二人の色男」を読んだ。

冒頭の八月の夕暮れのダブリンの描写で
物語の場所が瞬く間に広がります。
灰色の夕暮れ、
生きた織布のような群衆、
灰色の空気に絶え間なくつぶやくような音。

そこではじまる二人の若者のワンシーン。
ラットランド・スクエアの丘を降り、
二人が交わす会話。
どうやらひとりはコーリーでもうひとりはレネハンという名前。
彼らはナッソ―・ストリートを歩き、
それからキルデア・ストリートに逸れた。
道端のハープ弾きの曲の調べが哀切に響く通りでは
二人の若者は口をきかずに歩いていた。
スティーヴンズ・グリーンに出たとき、
彼らは道路を横切り、
電車の騒音、灯火、人込みが彼らを沈黙から解き放した........

会話、しぐさ、レネハンが食事をしながら頭によぎる厭世的な思い
それらをくまなく見つめる読者のわたしは
二人の若者の束の間の傍観者。
けれどもその短い時間のなかに
今までの人生とこれからの人生を
二人の若者が、
通りを歩きながら月を見、
ハープの調べを聞き、
「軽食堂」でエンドウ豆を食べる、
そんな時間のなかでわたしに表情やしぐさで語ってくれる。



「仮面の解釈学 新装版」 坂部恵 著  - 2012.07.23 Mon

著者の坂部恵氏(1936-2009)に、
「風の通い路」と題された小論があるらしい。
小論の主題は「風」。

私たちは風を感じ、風に「ふれる」。
風にそよぐ草木を目にして、風を「見る」。
また気流の音に風を「聞く」。
花の匂いをはこぶ風を「嗅ぎわけ」、風の冷たさを「味わう」。
吹きすぎて、吹きさってゆき、めぐっては還ってくる風にふれるときに
私たちは「いのちの息吹」にすらふれているのだ。

風をめぐって夢みるように紡がれた一文。
夢も、そして風も坂部氏の思考の軌跡と深いかかわりをもち、
坂部氏がとらえようとしたものは、
現実とのさかいで、
現実と交じりあって織りあげられる、
さまざまな夢の痕跡である。
風のようにたしかに存在し、
私たちにふれていながら、
それをとらえようとすると、
私たちの手を、すり抜けていってしまうようなものたち、
そのさまざまな「現象(あらわれ)」でもあったからである、と。

この「仮面の解釈学 新装版」は1976年に出版された著書を、新装復刊したもの。
生と死、覚醒とまどろみ、現実と夢のあわいを問うている。
「おもて」と「うら」、「もの」とその「かげ」といった、
さまざまな極が交じりあう領域に、
思考がそこで紡ぎだされるべきありかを見さだめている。


「うつし身」というタイトルで坂部氏が述べられた文がある。
  秋くれば、常盤の山の松風も うつるばかりに身にぞしみける
『新古今和歌集』におさめられた和泉式部の歌を引き
「うつつ」という日本語について述べている。
日本古典文学大系は、頭注で
「常盤は不変のもの。変わる筈のない、常盤の山の、常盤の松に吹く風が、
秋更けるとともに変って聞え、悲しく身にしむ、の意」と付けている。
坂部氏は、
「うつるばかり」にの注解が「変わったかと思われる程に。」となっているが、
これだけではどうももうひとつ足りない、
極端にいえばこの歌の生命にかかわる部分が触れられないままで
残されているというようにおもうと述べている。

常盤の山の、常盤の松に吹く風が、時が移ろい、秋更けるとともに、
変ったのかと思われるほどに、あたかも色付いたかのように感じられ、
風の紅葉色が、わたしの身に映り、照り映え、やがて、そのつめたい悲しさが、
身に移り、身にしみ、身体のなかを吹き抜けて行く……

メルロ=ポンティ風にいえば、
わたしの身体を織りなすのとおなじ織り糸で織りなされた世界。
その過ぎ去り移り行く世界とわが身との
このような交感をあらわす意を含めたものとして
「うつるばかりに」の一句を読むことは、深読みにすぎるだろうか。
と坂部氏は語っている。

「うつつ」は時間的にみれば、たんなる「現在」ではなく、
すでにないものたちと、いまだないものたち、
来し方と行く末との関係との設定であると。
うつつは、たんなる現前ではなく、
そのうちにすでに、死と生、
不在と存在の移り行きをはらんでおり、
目に見えぬもの、かたちなきものが、目に見え、
かたちあるものに映るという幽明あいわたる境を
その成立の場としている。」



言葉の保管棚 - 2012.07.21 Sat

書店に行き本を選ぶ。
とにかく本が読みたい。
でも今、自分はどんな本を読みたいのか。
自分に訊いてみたがわからない。

書棚の前に立ち装丁やタイトルで
気になったものを手にとる。
ページをめくり、言葉を探す。
読んですんなり心に入って来る言葉。
文学、人文、芸術、歴史、
書棚を巡って言葉を探す。
その本の中に一瞬で出会った言葉で
この本を家に買って帰ろうと思う。

その言葉を記憶の中ではなく、
そのページをめくると
必ず文字に触ることが出来る言葉という
形のある植物の葉脈を持つ葉っぱのように
「言の葉」として本棚に置いておきたいから。

そしてわたしは、
いつでもあの言葉はここにある。
と、部屋の本棚を見て安心するのです。





「オランダ絵図」 カレル・チャペック旅行記コレクション ちくま文庫 - 2012.07.20 Fri



カレル・チャペックが1931年に世界ペンクラブ大会出席のため
オランダを訪れた時の観察記。

オランダの運河  グラフトとカナール の記述がある。
家と家との間に街路というものがあるが、
オランダでは家と家との間に水路がある。
それはグラフトと呼ばれるが、
その水路が町と町との間を流れる時には、カナールとなる。
運河の岸辺には手すりがなく、
大きくて静かな家々の正面玄関が並んでいる。
そしてそのすべてが、水面に静かに映じている。
かつては水上輸送路であった運河。

カレル・チャペックは、物事の様子から見てこう言いたい、とある。
昔のオランダ人が自分たちの町を家と水で建設した理由は、
いわば一度に二つの町を作ろうとしたからだ。
一つは地上の町であり、もう一つはその水鏡に映ずる町である。
自らの国土の大きさから見て、
町をそんなに広げることができないから、
その規模を垂直方向に二倍にしたのである。
水中への反映。すなわち水の深みに鏡像を作ったのだ。
運河は、とても古いものだから、何か非現実的な感じである。
町はまるで、地上にあるのではなくその鏡の中にあるようだ、と。
これらの運河の鏡の中に、過ぎ去った何世紀かの人々、
広いひだ襟をつけた男たち、ボンネットをかぶった女たちの影が
動いているとしても、不思議と思わない。

カレル・チャペックは旅行者は、
歴史の発展とは逆の方向に歩みを進め、
ふつうは首都の中央駅、最新の状態について。
それから、より古いものへたどって行く。
最後に旅の終わりになって、牛の鳴き声や
風車の羽根のがたがた鳴る音のような大地の声を
自分で見つけ出す。
と書いている。

旅行者はガイドブックや歴史書に書いていない
その国、その土地の美しさを自分で発見することが
まさにその部分のほうが旅の印象につながるのかもしれない。
と思った。






「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」 村上春樹 著 新潮文庫 - 2012.07.18 Wed

アイラ島、島でいちばん高い山の上に上がっても、
目に見えるのは荒涼とした海原と水平線と空と、
よそ見ひとつせずに急ぎ足でどこかに向かって飛んでいく
素気のない灰色の雲だけらしい。

冬のあいだはとにかくよく雨が降り、
風が強く、なにしろ寒い。
そんな季節を楽しんでしまおうと
ひとりで島にやってきてコテージを借り、
誰に邪魔されることもなくしずかに本を読む。
ウィスキーとグラスをひとつテーブルの上に載せる。

アイラ島は、そこで蒸留されるウィスキーのうまさにより
もっともよく知られている。
シングル・モルト・ウィスキー。

村上春樹氏はアイラ島を訪れ七つの蒸留所の
この七つのシングル・モルト・ウィスキーを、
地元の小さなパブのカウンターでテイスティングしてみた。
気持ちよく晴れた六月のある日の、午後の一時に。

アードベック
ラガブリン
ラフロイグ
カリラ
ボウモア
ブルイックラディー
ブナハーブン

それぞれの味をことばで語った。
村上春樹氏は、
もし僕らのことばがウィスキーであったなら
僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って
静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。
僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。
でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、
僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。

ことばをひとつ残らず受け取りたくて
わたしはボウモアを飲んだ。




たとえばこの夏 - 2012.07.17 Tue

たとえばこの夏

お気に入りの曲を聴きながら
熱を持つ夜風に纏わりつかれて歩む




「中学生までに読んでおきたい哲学 4 おろか者たち」 あすなろ書房 - 2012.07.17 Tue



一ぷく三杯(夢野久作)
遺産(結城昌治)
すみません(山口瞳)
これはなんだ?(堀田善衞)
言葉は誰ものものか?(米原万里)
日本語は七通りの虹の色(井上ひさし)
文字禍(中島敦)
だめな人間なんていない(松田道雄)
遅刻論(梅棹忠夫)
やさしさの時代に(森毅)
「明るく元気に」病/ズル(河合隼雄)
怒る子は育つ(中島らも)
不当への憤り―子供対大人
痴人の夢(湯川秀樹)
狂気について(渡辺一夫)
吉野山(太宰治)
病気の愉しみ(吉行淳之介)
虚栄について(三島由紀夫)
虹を見ながら死ね(佐野洋子)
男らしい男がいた(色川武大)
首提灯(林家正蔵)

が収録されています。
このシリーズは大人でも読みたくなります。


「西瓜糖の日々」 リチャード・ブローティガン著 藤本和子訳 河出文庫 - 2012.07.16 Mon



どこか脆いような、微妙な感じの平衡が保たれている、西瓜糖でできている世界「アイデス」。
「わたし」はアイデスのすぐ近くの小屋に住んでいる。

ここの物がたいがいそうであるように、
この小屋も松と西瓜糖と石でできている。
わたしたちは西瓜糖で心をこめて生活を築いてきた。
そして松の木と石の立ち並ぶいくつもの道を辿って、
わたしたちの夢の果てまで旅をしてきた。
わたしは寝台をひとつ、椅子を一脚、テーブル一台、
それにいろいろな物を納っておく大きな箱をもっている。
夜になると西瓜鱒油で燃えるランタンもある。

わたしは窓の外、野原と松林、そして「忘れられた世界」へと
連なる町を眺めた。
野原で草を食む牛たち、小屋の屋根屋根、
「忘れられた世界」の大きな「山々」、
どれもこれも埃のようだった。空気までも灰色だ。

「アイデス」では、太陽は毎日、違った色で輝くのだ。
どうしてそうなのか、誰にもわからない。
わたしたちはせいいっぱい、いろいろな色の西瓜を育てる。

月曜日 赤い西瓜
火曜日 黄金色の西瓜
水曜日 灰色の西瓜
木曜日 黒色の、無音の西瓜
金曜日 白い西瓜
土曜日 青い西瓜
日曜日 褐色の西瓜

黒色の、無音の西瓜は切っても音がしない、
食べると、とても甘い。
そういう西瓜は音を立てないものを作るのにとてもいい。
以前に、黒い、無音の西瓜で時計を作る男がいたが、
かれの時計は音を立てなかった。

西瓜糖の世界に対置する「忘れられた世界」。
西瓜糖に満ちている分、西瓜糖の世界からはなにかが欠落している。
西瓜糖は「過度な感じ」とは無縁。
西瓜糖の世界は甘くて、それでいて残酷。


「アンデルセン童話集」 ハリー・クラーク 絵  荒俣宏 訳 文春文庫 - 2012.07.14 Sat



上巻と下巻合わせて24篇のおはなしが集められています。
アンデルセンは1805年、北欧デンマーク生まれ。

子供の頃、「おやゆび姫」や「人魚姫」、
「マッチ売りの少女」、「皇帝の新しい服(はだかの王様)」など
読んだのですが、200年以上前に生まれ、
デンマークの方だったとは、たった今知った次第です。
この文庫に魅かれたのは挿絵。
1889年生まれのハリー・クラークは
アイルランド・ダブリン生まれ。
ステンドグラス等を制作する工房に生まれ、
家業のかたわらに挿絵を描いていたそうです。
1916年に、この『アンデルセン童話集』が
彼の挿絵画家としてのデビュー作だそうです。

文中の挿絵はカラーではないのですが
1ページを使っているので充分に美しさは解ります。
表紙の絵はカラーで鮮やかで神秘的な色の輝き。
クラークはステンドグラスの輝きをそのまま挿絵にもちこんだ。
ステンドグラスは透過光といって後方からさしてくる光を透かして観るアート。
しかし挿絵は反射光、光を当てて観るアートである。
これらまったく違うアートをひとつにし、
神秘的なステンドグラスの光を描きだしたところが、クラークの功績であるらしい。

下巻の中の一篇「人魚姫」を読んでみた。
子供への「教育的配慮」によって消されがちな、
童話に秘められた美と残酷さを読むことが出来ます。
情景描写も細かく、会話も辛辣なことをさらりと言っています。
神秘的であり切なく大人のための挿絵入り童話。
読んでいて私の頭の中で人魚姫の美しさが想像され描かれたのですが
ページをめくり現れたクラークの人魚姫と海の魔女の挿絵。
死の恐怖、エロティシズム、耽美、それらが私の前に現れた。
挿絵の中に「人魚姫」の全てが語られていると思えるほど。

翻訳した荒俣宏氏は、アンデルセン研究家としても知られているそうです。
元来のアンデルセン童話は、けっして「児童文学」ではなく、
子供のままで大人の心を知る「成人文学」なのである。
と解説されています。






自分へのことづて - 2012.07.13 Fri

以前に書いたブログの記事の中で
書いた事を忘れかけていた記事のひとつを
読み返す機会があった。

このような事を書いていたのだなあと、
「私ではない誰か」が書いたのではないか。
と思うくらい初めて読むような気持ちで自分の書いた
文章を眺めていた。

その文章を読んでいる私は
その記事にいつのまにか励まされていた。
私が読み返す事を予測して書いたかのように。
私へのことづてであった。






『イタリア的カテゴリー』 ジョルジョ・アガンペン著 みすず書房 - 2012.07.11 Wed

ジョルジョ・アガンペンにより書かれた8本の論文が集められています。

第十二章に「詩の結句」の定義に関する論文がありました。
詩は、音と意味、記号論的連なりと意味論的連なりとのあいだの
緊張と乖離のなかにこそ存在するという
テーゼから出発しなければならないとあります。

ヴァレーリの定義
「詩は、音と意味のあいだの、引き伸ばされたためらいである」
ためらいとはいったいなんであろうか。

プルーストは『悪の華』のある詩の最終行について、
詩が突然崩壊し、息を切らせていると述べた。

詩は、形式的構造の点で、終わることができない、
終わるはずがないというかのようであり、
終わりの可能性が根本から排除されてでもいるかのようなのである。
というのも、その終わりが、音と意味の正確な一致という、
詩にとっては不可能なことを意味するだろうからである。

ダンテの『俗語持論』の一節。
「脚韻とともに沈黙に落ちるような、最後の詩行はとても美しい」
詩が沈黙に落ちるとはどういうことなのであろうか。
落ちる美しさとはなんであろうか。

詩の全体が、最後で、意味のなかに完全に
崩壊しかけているその詩行の脚韻音に強く結びつき、
そこに縛られたまま沈み込むことを選んだかのようになっているのである。
これが意味するのは、詩が記号性と意味性の対立を示して落ちていくということである。
こうして、音は永遠に音に託され、
意味は意味にふたたび戻されるように思われる。
言語を活気づけている二重の強度は、最後の理解で鎮まるのではなく
いわば、終わりのない落下の沈黙へとはまり込んでいくのである。

つまり最後に言語は、言われたことのなかに言われないままに残ることなく、
みずからを伝達することに成功する、ということである。

ウィトゲンシュタインは、
「哲学は本来なら詩作のようにしか書かれることはできないであろう」
と書いている。
哲学の散文は音と意味がその言説において一致するようにするという点で、
凡庸さに陥る危険がある。つまり、思考を欠く危険がある。
ウィトゲンシュタインの言葉をもじって言えば、
詩は、本来哲学することによってのみ、なされるべきなのである。

とても興味を魅かれる内容でした。


花風鈴 - 2012.07.09 Mon

和の小物を置いているお店を訪れた。

藍色に染められた布で作られた小物や
トンボ玉がついた可愛らしい髪どめなどを眺めていると
なんとも軽やかな音色が聞こえてくる。
音色に誘われてそちらに行ってみると
お店のなかに風鈴を下げ、小さな扇風機で風を送り
風に揺られた風鈴が音を出していたのです。

透明なガラスに花が描かれぼかし塗りで
やわらかな表情の花。
音色と揺られている風鈴の姿を見つめていたら
この音色を聞きながら家にいる夏の時間を過ごせたら
良いだろうなあと思い、買って来た。

家に着いて箱を開け風鈴を取り出してみる。
さっそく軒下に下げてみたいと思ってしまうが
梅雨空には少し早い。軒下で風鈴を揺らし音を鳴らしてみたが
湿度の高い空気の中では軽やかな音色は聞けなかった。

私の風鈴のイメージは、真夏の日暮れに少しだけ涼しくなってきた時や、
夏の終わりに秋を心のなかで感じつつ聞く音色。
涼を求めるというよりも郷愁を求めるような。
せつなくなるような音色。

箱の中に風鈴の覚書のようなものが入っていたので読んでみた。

日本人は音に対する信仰心がとても強い。
鎌倉時代「六学集」という書物には軒下に風鈴を下げその音によって、
災いを防いだと書かれている。
江戸風鈴の丸型は、下の口の部分がギザギザに作られている。
これが江戸風鈴の涼やかな音色のひみつ。

ということが書かれていました。

鎌倉時代の人たちは風鈴の音色を聞いてどのような事を
思っていたかしらと考えながら
風鈴をそっと箱の中に閉まった。



『和辻哲郎随筆集』 短文を通して描かれる夏目漱石 - 2012.07.08 Sun

岩波文庫の『和辻哲郎随筆集』を読みました。
随筆とはどういうものをいうのでしょうか。
ふと国語辞典で調べてみたくなりました。
「特定の形式をもたず、見聞、経験、感想などを気の向くままに書き記した文章。エッセイ。」
と書かれてありました。やはりエッセイと同じようなものをさしているのでしょうか。

岩波文庫の表紙には、
和辻哲郎は第一級の随筆の書き手でもあった。
とあり、
和辻のエッセイは、彼の発想と思索の原点を端的に示して、
学問的著作理解のよき補いとなるだけでなく、
平明な文体で読書の楽しみを堪能させてくれる。
と書かれています。

でもこれは随筆でもなくエッセイとも違う
なにか心に強く訴えかけるものがあるように思いました。
そう思ったあとに解説を読んでみました。
「自分は大正12年関東大震災のおりに、
いささか感ずる所があって、
書かないで済むものは一切書くまいと決意した。
その決意は今もなお続いている。
原稿の依頼は大部分断り通してきた。
だから、その年以降の短文は何かしら書かないでは済まない理由があって書いたのである。」
と著者の和辻氏は述べているらしい。

「短文」といって、随筆とはいわない。
著者のある種の決意がこめれている。
けれども論文のような学問的著作とは違い分かり易く、
著者が感じたことを読んだわたしが、素直に受け取れるような文章でした。

「夏目先生の追憶」という題の
『新小説』1917年1月臨時号に掲載されたもの
がこの本にのっていました。
「夏目先生の人及び芸術」に関する特集。

夏目先生の大きい死にあってから今日は八日目である。
私の心は先生の追懐に充ちている。
しかし私の乱れた頭はただ一つの糸をも確かに手繰り出すことができない。
わたしは夜ふくるまでここに茫然と火鉢の火を見まもっていた。

という文ではじまります。

著者の和辻氏が夏目先生を高等学校の廊下で毎日のように見た頃の感情や
はじめて千駄木の先生の家に訪れ話しをした印象など、
著者が自己の確かでない感傷的な青年であった「私」の頃にもどった追憶で綴られていく。
そして、
自分が先生に抱いていた感情は
先生の方から生徒を見ればどうなるか。
ということに触れ、先生の手紙の一節が引かれている。

著者の和辻氏が夏目漱石の個性を本当に細かく受け取っていて
感傷的な青年の頃から接していたから受け取れるものであるのでしょう。
和辻氏の文を通してここまで夏目漱石を知ることができることに
読んだわたしは幸福であると思いました。

和辻氏は夏目漱石の作品に触れ、

我々は赤裸々な先生の心と向き合って立つことになる。
単なる人生の報告を聞くのではなく、
一人の求道者の人間知と内的経路との告白を聞くのである。と。
『猫』、『野分』、『虞美人草』、『心』、『道草』、『明暗』
『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』、『硝子戸の中』
和辻氏は先生の人格に引きつけられている心持ちの中、
先生が「何を描こうとしたか」について触れている。

和辻氏は語る。
先生の技能が提供するさまざまの興味のある問題は、
たとえその興味が非常に深かろうとも、今直ちに私の心の中心へ来る事が出来ない。
しかしそのために読者諸君の注意をこの方向へ向けて悪いというわけは少しもない。
私は先生の死に際して諸君が先生の全著書を一まとめにして
あらためて鑑賞されんことを希望する。

先生の芸術はその結構から言えば建築である。
すべての細部は全体を統一する力に服属せしめられている。
さらにまた先生の全著書は先生の歩いた道の標柱である。
すべての作は中心をいのちに従って並べられている。

和辻氏が、
「田舎の事とてあたりは地の底に沈んでいくように静かである。
あ、はるかに法鼓の音が聞こえて来る。
あの海べの大きな寺でも信心深い人々がこの夜を徹しようとしているのだ。」

と書いている感情のなか描かれた夏目漱石に触れられます。
和辻氏が26歳の頃である。



ジャイルズ・フレッチャー - 2012.07.06 Fri

苑生の態はさながらに身を横たえし美女の
逸樂の夢にまどろみ、うつらうつら、
雙の瞼を大空に閉づる姿を想はしめたり。
光の花を繚亂と飾れる一つの輪の中に、
紺靑の天つみそらは、けざやかに閉ぢ込めてあり。
鳶尾の花、瑠璃色のその葉をつたふつぶらかの
露のきらめき、夕暮の靑きがなかにきららきらら
またたく星か、眼にしるくあらはれ初めぬ。

            ジャイルズ・フレッチャー。

ジャイルズ・フレッチャーは『キリストの勝利と凱旋』
と題する長詩の作者(1588頃―1623)

上記の句は『未來のイヴ』の第一章冒頭で引用されている詩です。



七夕に読みたい本   - 2012.07.06 Fri

明日は七夕。
彦星と織姫の物語。
愛の形は宇宙にきらめく星の数と
同じくらいあると思います。

そんな夜に読みたい本。
こんな愛の形があってもいいのねと思わせる物語。

「未來のイヴ」 ヴィリエ・ド・リラダン著 創元ライブラリー
恋人アリシャの非の打ち所がない外面の魅力の虜となった
イギリスの青年貴族エワルド卿は、「久遠の女性」を憧憬するロマンチスト。
だが恋人アリシャの魂は「俗物の女神」が君臨していた。
その魂の卑俗さにエワルドは苦脳する。
そのエワルドのために、科学の英雄エディソンは
アリシャの肉体から魂を取り除くことを引受け、
人造人間ハダリーを創造する。


恋愛についてじっくり考えてみたい本。

「恋愛の不可能性について」 大澤真幸 著 ちくま学芸文庫
社会学者の大澤真幸の論文集。
表題の恋愛の不可能性についての論文は面白い視点です。


「未來のイヴ」は、読んでいる途中なのですが、
正漢字の表記、歴史的仮名遣いが独特の雰囲気を出し、
読んでいると著者の生きていた1838年から1889年の時代に
すぐに入り込める名訳の虜になります。






坂のしぐさ - 2012.07.04 Wed

東京都美術館に行った帰り道、
少しお散歩しようかしらと思い谷中の方へと歩きだした。
梅雨空の中、上野桜木一丁目を通り
根津神社に行ってみようと思った。
途中に写真を撮りたい建物や紫陽花、お寺など
見つけたらどんどん撮っていく。
少し雨が降ってきたけど気にしない。
傘もささずに撮って、撮った後にカメラのレンズごしではなく
自分の目でその撮ったものを眺めて、風情があるなあとか
あの壁の蔦が素敵だなあとかどんどん思い出を心の中に入れていく。

坂を下りる途中の歩道が狭い。
雨がかなり降ってきたので私も傘をさして歩くことにする。
向こうから傘をさした小学生の男の子が歩いてくる。
わたしとすれ違う時に傘をさっと上にあげて
雨のしずくが私にかからないように歩道をすれちがった。
こころが温かくなった。
ますます楽しい気分で坂の歩道を下りていく。
向こうの方からもうひとり小学生の男の子が傘をさして歩いてきた。
すれ違う時男の子は傘をさっと少したたんですれちがった。
とってもやさしい気使いのタイミングで。

梅雨は前から好きだったが、もっと好きになった。
雨に濡れたお寺の石畳、家の垣根、この坂の歩道ならではのやさしいしぐさ。
ここの坂を散歩して、うれしい思い出が心の中に入りきれないほどたくさん。
その場所、街を好きになるってこういう事なのですねと思った。


さわがしい静物画 - 2012.07.03 Tue

東京都美術館で開催されている
「マウリッツハイス美術館展」に行ってきました。

出品作品リスト

第1章 美術館の歴史
第2章 風景画
第3章 歴史画(物語画)
第4章 肖像画と「トローニー」
第5章 静物画
第6章 風俗画

6つの章で構成されていました。

第5章の静物画のところへ来た私が
最初に出会ったのは
ヤン・ブリューゲル(父)の作品
「万暦染付の花瓶に生けた花」

その静物画がぜんぜん静止してはいない。
花の一本一本が私に話しかけて来る。
虫のそれぞれが私に話しかけて来る。
心がざわついて、でもその場を離れたくなるわけではなく、
ずっと話しを聞き続けたくなる。
私はその絵を見ていても心は癒されない。
けれど楽しい。
花たち虫たちが私へ話す内容が
秘密めいているから。
こっそり内緒のはなしをおしえてくれる。
人間が絵の中の花たちや虫たちはなにもわからないと思い
その絵の前でくりひろげてきた秘密の出来事。


紫陽花と私と雨 - 2012.07.02 Mon

雨の降る夜、自転車に乗っていた。

たしかに雨は降っているのであるが、

私の肩を濡らす雨ではなく、

心を潤してくれるような雨だった。

紫陽花に降る夜の雨にぴったりだなと思った。

紫陽花に優しく語りかけるような雨。

紫陽花と私と雨の、夜のひとときであった。

そんなことを思い出した夜の舗道を

歩く私の手には花屋さんで買った朝顔の鉢。



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